Gameboy Homebrew

前フリ

 昨今のレトロゲームのブームは凄まじいものがある。ゲーム機自体をコレクションとして集める人もいれば、新規にゲームを開発したり、専用のハードウェアを開発したりしている。老害も2000年前後にゲームボーイ(以下、GBを併記)の開発を趣味で行っていた、同人開発の走りだ。もう休刊してしまったが三才ブックスのゲームラボに連載を持っていて、3年くらいは続いたと思う。ここでは、当時を振り返ってみたいと思う。記憶違いもあるかも知れないので、思い違いや時間の前後もあるかもしれないが、老害の繰り言だと思って許してほしい。

ことのはじまり

 まだ、20世紀のことだが高専時代の親友が老害に、「GBの開発をやらないか?」と言ってきた。当時(今も)の常識として、ゲーム機開発にはそのメーカが公式に出したSDKが必要だ。なので、返事は「出来んの?」だったと思う。その親友は、老害も認めるほどの使い手だし、もう働いててその活躍も聞いているから、そういうことで空手形を切るような男ではない。「ん、出来そうだよ」って事で始まった。

GBDKとPascal Felber

 今はどうか知らないけど、当時の開発はGBDK:Game Boy Development Kitを使うのがHomebrewでは一般的だった。その取りまとめが、当時EPFLのポスドクだった、現Prof. Pascal Felber である。老害も当時は、ギリギリ30代前半だし、件のPascalも20代後半だったと思う。インターネットが普及し始め、様々な情報が行き交うようになり、こういった情報も開発者から直接届くようになったのだ。実際、デモ・サンプルが多い中で、老害たちはゲームであったり、ユーティリティであったり、GBCが出るといち早くカラー化を試みたりと前向きに活動していた。

 老害は当時BOSCHで働いていたのでドイツへの出張は頻繁にあった。出張中に休暇を合わせスイスに行くことが出来た。EPFLはローザンヌにあり、彼はそこに住んでいた。また、偶然にもローザンヌに住んでいる同好の士が見つかり、一緒に会うことになった。今考えると、スマホはおろか携帯電話も無い中で、初めて行く国の空港で良く待ち合わせが出来たものだなと思う。その同好の士が空港まで迎えに来てくれて、Pascalの家まで送り届けてくれた。Pascal自身も電子工作をするようで、同じハンダゴテを見つけた時はなんとも言えぬシンパシーを感じた。夕食は本場のチーズフォンデュをご馳走になった。翌朝は、三人での行動だ。ローザンヌにはレマン湖がありスイスとフランスにまたがっている。同好の士は、いい感じのボートのオーナーでレマン湖でボートを浮かべて、そこでBBQをやってくれた。そのまま対岸のフランスに渡った所に花屋があり、自分の記憶はその花屋の花と同じくらいの鮮明さで今も覚えている。その思い出の写真もどこかにあると思う。当時はデジカメがやっと来た時代だ。これらの写真はそのうちにデジタイズしたい。

DATELとUK遠征

 これもまだ20世紀の話だと思う。NOKIAに転職する直前のはずだ。TeamKNOxは、ゲームも作ったけど、GPSをつなげたり、LEGOのマインドストーム用のリモコンをGBで作ったりしていた。そんな中で、PDAが出始めた。誰が言い出したか、「よし、GBでPDAを作ろう!」と。件の親友が、シェルと言うかPDAっぽいランチャー的なフレームワークを作って、単体のアプリをそこにポートしていった。多分、10個以上はあったはずだ。そんなのが、Pro Action Replay で有名なDATELの目に留まり、コードを使いたいからライセンスを教えてくれという連絡があった。チームメンバーは定職をちゃんと持っていたし、今ほど副業の関心も無かったので、「自由に使っていいよ、ただゲームメーカ非公認のデバイスを開発しているDATELには興味があるから意見交換したい。オレと友人の分のアゴアシ(交通費と宿泊費と食費)はそっちで負担してくれ。もちろんビジネスクラスだ。」って、むちゃくちゃなメールの返信をしたのを覚えている。色よい返事が来たので、旅行代理店の口座を教えて飛行機代は振り込まれた。この歳になるまで、正規の料金でビジネスクラスに乗ったことはないくらいだ。バーミンガムまで飛行機で行くためにパリでの乗り換えだった。DATELのラボでは、様々な開発中のデバイスを見せてくれたり、技術的なディスカッションをしたり、食事に連れて行ってもらったりした。思い出深いのは、ロンドンのホテルを予約したので、そちらで一泊してくれと言われ、向かったのはいいもののバーミンガムから上下を間違えてしまい、リバプールに行ってしまったのだ。『なんか、ビートルズ推しだな…?』とは思ったのを覚えている。車掌に話して反対線に乗り無事にロンドンに着いた。ホテルの部屋にちゃんと果物とシャンパンが置いてあったのには感動した。ロンドン市内をぶらつき夕食を楽しんだ。ハプニングが起こったのが、チェックアウト時だ。「DATELから、予約は受けたが、宿泊料金は誰が払うかは聞いていない、ここで精算してほしい。」と言われた。こっちは、アゴアシ前提で来ているので、これは譲れない。しかも、その日は日曜日でオフィスはやっていないし、携帯電話も普及していない時代だ。なんとか交渉して、チェックはDATELに付けると言う事で話はまとまった。まぁ、向こうも言葉の不自由な日本人に時間を割きたくなかったのだろう。帰りもパリ経由だが、パリで一泊して帰ることにした。セーヌ川の川底の工事が見れたり、エッフェル塔に登ったり、凱旋門を見物したりで楽しい思い出がある中で事件が起こった。パリの路地を歩いていると、「薬物捜査中だから財布の中を見せろ」と言われ、そのまま現金を抜き取られてしまった。後から考えると、チェンジ盗の応用版みたいだと思う。失意の中で帰路に向かうと、友人が「老害のおかげで本当に楽しめたから、これで元気出せ!」と日本円で30,000円くれた、泣けた。

ハドソンと札幌遠征

 ハドソンも食いついてきた。赤外線とか、ミニゲームとかGB KISSとコンセプトが似ているから、色々と話しをしないか?と持ちかけられ札幌に行くことになった。こっちももちろんアゴアシ付きである。今回は1人で行った。当時の役員の中本さんとラウンジで色々と話したことを覚えている。

ゲームボーイと『愛の流刑地』

 『愛の流刑地』は日経に連載されていた渡辺淳一の恋愛小説だが、このタイトルを見て、ニヤリと笑うのは間違いなくアラカンの老害だろう。その座標間の距離において極大値を取りそうな、ゲームボーイと愛の流刑地であるが、疑似体験できた老害には極小値だ、それの証明をしよう。ちなみに愛の流刑地体験というのは、老害の経験が先で、それを表す言葉として、愛の流刑地を使っている。老害は今も生きているし、菊治と冬香のような深い関係にはなっていないことはあらかじめお断りしておく。
 一冊目のゲームボーイ本が出版されてから、しばらくすると担当の編集者から、「女性からファンレターが来てますよ、メールですけど。」との連絡をもらった。何冊も上梓しているが、直接的なファンレターはこれが最初で最後だ。その内容は、「ゲームボーイでこんなことが出来るなんて感動しました。今、ゲームボーイを手にとって色々と妄想しています。」と書かれていた。妄想するのは、こっちだし得意だ。メアドも書いてあったので返事を書いてみた。すぐに返事が返ってきた。最初に会ったのは、当時のノキアのオフィスの雅叙園だったと思う。なぜか、先輩と一緒に会ったと記憶している。20代後半で可愛い感じの既婚者で当時の流行りだった厚底ブーツを履いていた。渋谷を歩いている感じで、どう見てもアキバ成分は皆無だった。仕事が忙しかったせいもあるが、多分昼間に2-3回あっただけで、愛ルケ成分は『著作に感動して、会いに来てくれた』だけだった…
 プログラミングはしたこと無かったらしいが、成果物は素晴らしかった。ツールのセットアップやビルドが出来るようになり、簡単なゲームの自作や拙作の『神経衰弱』をカラー化していた。本を出すのは大切だなと思った。調子に乗って、その後に2冊、開発本を書いたが、ドジョウは2匹いなかった…

牧歌的な時代だった

 今考えると、夢のような時代だ。当時は8bitのCPUが現役がだったから1人出来る範囲も広かったし目も行き届いた。今だと、どうしてもセキュリティをかいくぐって、そこから始めなきゃいけない。まぁ、その反動で今のレトロゲームブームがあるのかも知れない。

成果物

 老害の繰り言が長すぎた。何年か前に終活として上げといたレポで、ここでは一つだが他にもあるので、ぜひサイトをご覧いただきたい。