理系教育

 Xなどを見ていて、時々湧くのが理系教育論だ。まぁ、基本的にXの論壇(と呼べるかどうか?)は無責任なのでパッと見は面白い。一応、理系教育を増やすための原資?をどこから調達するかなども述べられていて、なるほどなぁとも思う。

 大体、その原資の供給先として、漢文がやり玉に挙げられる。自分は、中等・高等教育(の初期)が高専なので、普通科からの大学受験を体験していない。漢文はおろか、世界史・日本史(近代のみ)、そして理系科目で言えば、生物や地学でさえも差し出して、数学や専門科目の授業時間を捻出したのだ。もう、教養も何もあったものではない。こんなことがあった、卒業して就職して、2-3年が経っただろうか?『カノッサの屈辱』なる深夜番組があった。自分から見ると、「変わった題名の番組」だなと思う程度だった。当時の後輩(同学年だが大卒なので2年遅れ)が、「秀逸なネーミングセンスですよねぇ、『カノッサの屈辱』ですもんねぇ、世界史で絶対に習うし…」と言っていたのを思い出す。今でこそ、世界史や宗教などの本を読み漁り、その成り立ちをオリジナルの国の人々とも会話したり、専門誌以外でも執筆したことがあるが、当時はそんなものだったのだ。これらの活動は『カノッサの屈辱』を知らなかったコンプレックスが原動力になったのは言うまでもない…

 まぁ、いやしくも理系教育を受けてきたと称すからには、この問題が構造的な要因であり『原資を捻出して、それを振り替えるだけの話ではない』ことはわかるはずだ。ただ、それでも優先順位を設定して、そこから手を付けるというのは必須のアプローチではある。まず、理系と文系とは何かを考えてみる必要があり、そこにはどんな問題があるかを考える必要がある…

 当初はシンプルに、『人の役に立つ学問体系が理系』、『人を楽しませる(学問)体系が文系』と考えてた。今では、もう少し拡張・整理して、『自然を相手にする学問体系が理系』、『社会を相手にする学問体系が文系』となり、「じゃぁ、『社会科学』はどうなんだ?」の問いには、「それはご都合主義の『エセ』です」という立場である。『英語が苦手だから、理系』、『数学が苦手だから文系』とは、それなりに受験勉強をしてきた人の便であるし、皆さんも首肯すると思う。英語という『言語』がそのまま出ているので、それのハレーションがデカくて気づかないと思うが言ってみれば、数学は自然を記述するための言語である。どっちの言語を選ぶかの話だし、英語はラテン語から派生したものであることは論を待たない。つまり、西欧諸国では、『英語が苦手が(日本を含めた東アジアより)出にくい』構造なので、日本のように『理系と文系』を分けること自体が発生しないのだ…

 そろそろまとめに入ろう、どっちの構造をアタマの中に写像しやすいか?自然科学の複雑さなのか、人間関係に代表される社会構造なのか?人によって様々だろう。老害自身を振り返ってみると、教養科目の教育機会を奪われ、理系教育も落ちこぼれて、脳は中途半端に生焼けの状態だ。誰も恨んではいないが、こんな半端者でもそれなりにやってこれたのは日本の教育の素晴らしさだと思うし感謝だ…